写真の話いろいろ

③ 大河ドラマ『晴天を衝け』

  の徳川昭武、住居跡 

     byテッチャン20217/22

 

 

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         住居跡 

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    松戸の戸定(とじょう)邸は徳川昭武(慶喜の弟)が建てたことで知られているが、当時は7万平米(約2万坪)と相当広かったようで今は三分の一程度に分断されている。戸定邸は明治時代の大名の住み家でほぼ完全に保存されている唯一の建物で、そこは幕府の薬草園だった。維新後、軍の施設が隣接して建てられ、その後千葉大の工学部が出来た。今は千葉大の園芸学部が残っている。

 

昭武は写真が趣味で慶喜と切磋琢磨のライバルでした。維新後、軍が管理していたので今はないが一部に軍の幹部が談話する大理石のテーブルなどが残っていた。現在は松戸市の管理になっているが、前はブルーのトタンが貼り巡られ、個人の管理だった。現在公開されている戸定邸は23室あり、職員がすべて毎朝雨戸を開けている。

 

車で水戸街道を江戸川橋を渡ってしばらく行くと短いトンネルがありその上が千葉大園芸学部で戸定邸とも隣接している。

水戸街道を暫く進むと小金宿の旧道に入れ、小金宿には今も玉屋という旅籠が当時のまま残っている。近くには水戸藩の本陣があった。玉屋から200mぐらい行ったところに右水戸街道の道標がある。そこをまっすぐ進むと現在は常磐線の北小金駅ですが本土寺という名刹に突き当たり、その参道には徳川光圀が寄進した欅並木が連なっている。本土寺には家康の側室秋山夫人のお墓があり秋山夫人が生んだ子は武田信吉を名乗り小金城三万石を封じられている。

秋山夫人の墓石は武田信吉の甥水戸光圀が建立したもので、境内は紫陽花と花菖蒲の頃は訪れる観光客で賑わっている。資料は主に教育委員会・ロータリークラブのものを参考にしている。旧水戸街道は暫く行くと六号線を突切り、手賀沼から我孫子方面へと続く。その先石岡あたりの街道まで行くと当時の面影が残っている。戸定邸は昭武の個人の館だが、その先水戸の偕楽園は頼房が領民の憩いの場として造園した庭園である。

 

◆十数年ぶりに改めて戸定邸とその先、小金宿・本土寺に行ってきました。剪定作業中で無料開放していました。7000.歩ぐらいでしたがだいぶ足に来ました

 

     ② 最後の将軍 

    徳川慶喜と写真 

      byテッチャン 2021/7/8

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最後の将軍 徳川慶喜は写真を趣味にしていたことが知られています。慶喜が写した写真はひ孫の徳川慶朝氏の家で発見され新聞社から発刊されています、使っていた写真機はペンタックスギャラリーに託されています。撮されるのも抵抗がなく将軍時代に外国人の写真家によるものが残っていますひ孫さんも二代目写真家で慶喜についての県の松戸市には慶喜の弟の徳川昭武の建てた戸定邸があり戦後あれた状態でしたが松戸市に託され整備され公開されています。

 

慶喜も度々訪れて付近の風景など貴重な写真を残しています。慶喜は大政奉還後水戸に蟄居しましたが静岡に移され謹慎しています、明治になり向島に移り本格的に写真に没頭しています。当時な乾板でした。慶喜は多趣味で新しいものに挑戦しています。これは水戸の斉昭の血のようで、写真、自転車、車 等など。

 

 慶喜については色々と言われていますが結果的には鳥羽伏見の戦いからの逃亡などで日本の内乱を救い、日本の植民地化を免れたことになります。当時フランスは慶喜に援助を申し出ていたと言います。未だ十分薩摩軍と太刀打ち出来たそうですが江戸に逃亡し明治維新を誘導したことになります。明治天皇も明治末にはお許しになっています。日本橋の欄干の日本橋の文字は慶喜の書だそうで一旦は断ったそうですがたっての依頼で引き受けたそうです。松戸の戸定邸では時々展示会などが開かれています。

 

 ①クラシックカメラ<VEST POCKET KODAK>  

 

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 上の写真は日本でも周知のアメリカの写真会社KODAK(1919年刊)のカタログに掲載されたポケット小型カメラです。名前は<VEST POCKET KODAK>と言う。

 

  カメラの大きさは約縦110mmx横51mmx厚さ25mmで文字通りポケットサイズである。カタログによると写る画面サイズは40mmX65mm(日本ではベスト判と言う)で8枚撮りのA127と言うロールフィルムを入れて使う。このカメラの操作は簡単で、固定焦点の部分(前面のレンズ部分)を開けるとすぐ撮影できる。シャッタースピードは 1/25と1/50の2つであとはB(長時間の露光用)がある。

 

  価格はタイプによって違いはあるが、レギュラータイプで8ドル、一番高いので32ドル53セントになっている。調べると当時の為替レートは1ドルが2円になっていて、現地で日本円なら16円だが輸入価格だともっと高くなるはず。日本は大正8年で当時のタクシー料金は都内で60銭〜1円、大卒の初任給は50円位だから決して安くは無いが庶民でも買える値段。その6年後には国産初の<パーレット>の名で同じ様なカメラが17円で小西六本店(現コニカミノルタ)から発売された。日本のカメラ製造技術力はもうすでに100年も前からずっと続いている事がうかがえますね。